昭和46年08月28日 朝の御理解
御理解 第33節
「お供え物とおかげは、つきものではないぞ。」
お道の信心を段々わからせて頂きますと、日々こうしてお生かしのおかげを頂き、お日参りでも、こうやって朝参りでも出来ることそのこと自体が有り難い、と分からして貰うのが信心だと思うのですね。だから此処ではお参りとおかげは、つきものではないぞと言うてもよかろうと思うのですね。一生懸命朝参りしょるとも、おかげを頂かんならんけん朝参りをしょると、言うのでなくしてですね。
今日も一日また平穏無事、又は有り難い一日であることを祈らんものはありませんけれども、それとてもです、いつ雨が降るやら、風が吹くやら分からないけれども、神様のおかげ、いうなら御恩徳の中に頂かして頂いておると言う所が分かった以上、御礼参拝させて貰わねばおられない、それがお参りと言う事になって来る。日々有り難い御教えを頂く、信心はどういうものか、信心をさして頂くと言う事は。
特にその事をさして頂くと言うのでなくて、生きとし生けるものすべてが、信心による生活をさせて貰うと言う事が、真の道を履んでいく事であり、人間として人間らしい生活をさして頂けれる、道を知ると言う事。教えて頂くのじゃない信心はせんでもおかげはやってあるという程しの、大きなおかげを悟らして貰う。そこからお参りをさせて貰わねばおられない、お供え物とおかげはつきものではない、御参拝とおかげはつきものではないと言う所まで」信心がわからして頂く所に、信心の値打ちがあるのである。
親鸞上人様と勇吉じいさんの話があります様に、毎日毎日上人様の許にお話を聞きに見える。来る日も来る日もきっとお話を聞きに来るから、上人様が勇吉にいわれた。「そう毎日毎日参って来んでも、如何に参った、お話を聞いただけでね、おかげを落としては何にもならぬぞ」と仰しゃった時に、勇吉さんがお答えした。「落ちるこの身は十八願のうちと思えばあぶな気はなし」と答えた。こうやってお参りしておることは、おかげを受けるとか受けないじゃございません。
よしこのまま地獄に落ちましても、いわゆるその地獄とても十八願、弥陀如来さまの願いの中であると思うたら、危気はありませんと答えた。それ程しの事が分かっておるなら尚更参らんでもよいぞと言われた。それ程しのことが分かっておるのなら尚更参らんでもよいぞと、お話はもう聞かんでよいぞと。信心をさして頂いて分からして頂く、それが何処にどういう風にしてあろうが、その中とても天地の親神様の懐の中にあるのだ、お恵みの中にあるのだと分からせて頂く。
その天地の御恩徳によくしておると言う事が有り難い、だからもうおかげの落とし様がない。例えば降ろうが照ろうが、照ってもおかげである、降ってもおかげであると言う心を開いておる。もうそれ程しの事が分かっておるのであれば、いよいよ参って来んでもよいぞ、いよいよお話をもう聞かんでもよいぞと、上人様は仰しゃった。処が勇吉さんが、それに対して答えた。「日々親様にこの様にして御苦労をかけておるのであるから、そのことを思うたら家にじっとしておられん」と仰しゃった。
もうほとほと上人様も感心されたと言うお話であります。朝から晩まで、金光様が私ども信者氏子のために、朝早うからあの様にして御奉仕下さってある。その事を思うたら家にじっとして居られない。それが私は純粋の信心、お参りしたからと言うておかげ頂くのじゃないぞ、お供え物をしたからと言うて、おかげはつきものではないぞと言うて例えば言われても、止むに止まれぬ思いが奉仕になり、お供えになり、お参りになる。いうところに信心のいわば本当の有り難さがある訳である。
そこの体得です信心とは、家にじっとはして居られないと言う、処がやはり一心を立てて参れば参るだけの事はある。昨夜も久留米の共励会から皆さん帰られてから、暫く寝まして貰おうと思いよったら、あのお参りがあっとった。親子で参ってそれで、おかげで子供が生まれたから親と子でお参りをして来ておる。そしてどう言う事かと言うと、難産でございましたと、もう何か不足らしい、機械でこうやって出しました。頭はこげん長うしてからちゅうてから、もうそれが不服らしかった。
初産です、その主人になるのが家内が妊娠のおかげを頂いて、一週間に一ぺんは必ずお参りをすると言うて何回か参って来たけどそれ切り参って来ん。だからその参ったけんおかげを頂くと言う事ではないと、お供え物とつきものではないぞと仰しゃるけれどもです、ところが皆さんの体験で、参れば参るだけおかげを頂くことは事実でしょうが。お商売をする人が参れば参るがたちがう。日田からそれこそ一週間に一ぺん位しか参って来ませんが、かしわ屋さん、それからラーメン屋さん。
そしてその方の娘婿さんと三人連れで参って来なさる方がある。時々ではあるけれども、お参りをし出してから売上がずーっと増えて来たと、参れば参るがた有るだけは事実。やはり一足でも無駄にはさせんと仰しゃる。けれどもそこには神様の御都合やら、またはお育てを頂くことのためにです、願っても願って願い通りにならんどころか、反対になると言うところも信心の世界にはあります。
それは皆さんも体験しておられるだろうと思います。私どもがそうでした。大坪さん、貴方がおかげ頂かん筈がないと言われた時代です。ところがおかげは実際受けなかったです。只おかげと言うなら、自分の心の中にいよいよ有り難いものが育って来たというおかげである。ですから金光様の信心は、参れば参るだけおかげを受けるのですから、おかげを感じますから。
昨日連れのうて参ってまいりましたから、それかと言うて、あんたが子供が生まれる迄お参りしますと言うてから、それっきりお参りはせんけんたいと、まあ言いたい気持ちもないじゃなかったけど、それはまあ、私のお願いが足らじゃったのと、いう様な意味のことを申しましてまあ帰られましたけど、帝王切開をしたって仕様がない。腹を切り割って出したって仕方がない。
否、死んで生まれたって何処に不足があろうか。こんな訳でしたけど、おかげで生まれましたと、まあ言うならまだよか、まああげんお願いしとったと、とは言わっしゃらんけど難産でした、機械で出しました、いっちょも神様のおかげはなかごとある感じ。まあ信心が分からん人ですから、人達ですから仕方ない様なものです。信心ちゃ何か結構毛だらけがおかげと思うとる、自分の信心は棚に上げて。
昨夜の御祈念の後に、皆さんにきいて頂いたですけどね、私どもと神との仲と言うものは、人間が例えば如何に真心だ一心だと言うても、神様の眼から御覧になれば、それはもう或る意味では他愛もない事の様に、ある時もあろうと思う。昨日博道君が当番でしたから、御祈念してそういう、まあ一生懸命精進しておることを聞いておりました。一心に神様を求めておる自分の姿というものをお話しておりました。
お話を聞きよりましたら、それこそ昔、父から聞いておった時の話を思い出さしてもらった。聞きながら思い出さして貰ったからその事を話した。いま博道君が話したのはこういう事じゃなかろうか。私の父が未だ十かその位の時じゃなかろうか、ですから言うならば、今が八十八ですからまあ八十年も前の話です。七月十三日は草野の町の祇園さんのお祭りです。それは昔は大変なお祭りでした。
私共が子供の時でも、八十年前はもっと子供にとっては、楽しみの一っとする程しの大きな賑うお祭りでした。確かにそのお参りさせて頂いたんですがね、所が初めて草野の町に氷が来たと言う事なのです。それはもうこの暑いとにその冷たい氷があるなんてもう、氷とは冬しか見られないものですから、それが氷をかいてから売りよる訳です。もうそれをもう見るだけじゃ、当たって見て冷たかもんじゃけんもうびっくりした。
そういう時代の話でして、それから氷をかいて皆食べよんなさるとを見よった。ところが一番最後になって小さい欠けるとこがあるでしょう、そしたらそれもお金にしょうと言う訳ですね、珍しいですから。これは幾らちゅうてから言いなさったなら、それをおっちゃん呉れんのという訳で幾らかでも買うた訳でしょう。丁度、父の為にはお父さん、私の為にはじいになりますのが、中風で休んでおりました。
それでこの暑いとに寝とるとに、この冷たいとばお父さんに持って行ったら、どげん喜ぶじゃろうかと思うたわけ。それからタオルで包んでから草野から椛目まで走って帰って来た。帰って来たけどもう帰った時には、タオルが冷たく濡れておるだけでね、中は溶けてしもうとった。それを聞いて、ばばがね「徳しゃんあんたが買うて走って来ただけで、お父さんがどげん喜ぶか分からん」と言うたと、言う話を昔聞いたんです。だから私どもと神様の場合だってそんな事じゃあるまいかと。
幾ら御用しました、幾らお供えしました、いくら参ったと言うても神様との間はもう、神様の痒いところが掻ける程しの事がもう言うならば、出来るじゃなかろうかと思う。けれどもねこの暑いのに、この冷たい冬にしか無いと思われる様な氷の破片ですね、氷を一寸口に入れてやったらどんなに喜ぶかと思うた。それでもうそれを買うて、タオルでこう包んで一生懸命走って来た。
けれども、もう既に間に合わなかった。けれどもそれを聞いて親が喜ばん筈はないですよ。もうその心だけで嬉しいと言うのは、その事じゃないでしょうか。と言うて昨日お話し聞いて貰ったのですけどね。それが未だ少し残っておってそれを一口、口に入れてやったら、それは有り難い事でしょうけれども、そういうね、それでもね神様はもう口には入れて貰らわんでん、それを一生懸命走ってそれを持って帰ったと、いう気持ちを聞いただけで親は嬉しい。神様も同じこと。
だからそこです、そこにはもう無条件、お供え物とおかげは、つきものではない、だからおかげを頂こうと思うてお供えしょるとじゃない、そうした止むに止まれん気持ちがそうです。勇吉さんじゃないけれど、どうかせにゃおられんと、家にはじっとしてはおられんと言うのが、お参りという事になるとき、それを神様が喜んでお受けにならん筈がない、こうやってお参りしょるものは、おかげを頂かんならんから参りよる、それではまだ純粋な信仰とは言えん。
純粋な信仰とは本当に神様が分からして頂いて、お話しを聞けば聞く程に、天地の大恩徳の中に生かされておるだけでも有り難い、お話を聞けば尚有り難い、それを取り次いで下さる金光様は、毎日私どもの為に神様、御神前に祈っておって下さる、願っておって下さると思うたら、家にはじっとしておられないと言う心、それがお参りという形になって表れて来る。そこに初めてそれが純粋なものになって来る。
純粋なものになって来るからです、おかげを頂こうとは思うとらん、お供え物とおかげは、つきものではないと、いわゆる無条件の純粋さをもって、それを親が喜ばん筈はない。それがおかげになって反映して来ん筈はないと言う事になる訳なんですよね。だからこの辺のところが大変難しいと言えば難しい。だから本当に信心が分からして頂くところから、無条件の御用も出来りゃ、無条件の御参拝も、いや、参らなければおられない切実心というか、止むに止まれないというものが募ってくる。
それが信心の形に表れる、日常生活に表れるところに、それを真の信心生活と思うのです。こう改まらにゃおかげ頂けんから、こういう風にせなければと言うところには無理がある。だからそこの辺のところをよう分からにゃいかん。 私は今朝方こんなお夢を頂いた。大きなお家が建っているのじゃない倒れとる。それは切り込んだばかりで折り畳み式になってる感じ、一ぺん建ったやつが倒れておる。その中心に大きな縄がついている、私は目が覚めてから思うた。
今度ここで皆さんが願いとしとられる処の、西脇殿建立の事であろうと思うた。もう神様の心の中では実際はもう出来上がってしもうとる。設備、設計位の事じゃない、もう切り込みから何から何まで出来てしまっておる。それがこげん倒れておるだけのこと。そこでその中心についている大きな綱をですね、引っ張り起こすだけで出来た事になるのです。と言った様な感じのお夢でした。
これはほんに五人、十人で出来る事ではないぞ、この綱をここへ御縁を頂いておる信心信奉者が、それこそ打って一丸になってこの綱を一生懸命で、それこそ掛け声も勇ましく、一、二、三で引っ張り起こさねば、これは立たんなと私は思うた。止むに止まれん神様の願いと、皆さんとの願いが、そこに止むに止まれんと言う願いが一致したとき、私は本当の事が成就するんだと思うです。信心倍増運動もそういう事なんです。もうあの人達がしござるけんで、と言う様なことでは出来んです。
此処に御縁を頂いとるもの一丸となって、しかもお供え物とおかげはつきものではない、この建立お供えして一徳受けにゃ、これで一ちょおかげを頂かにゃと言った様な、いうならば我情我欲はすて切って、そげな事はもう問題ではない、ただ神様のそうした御用に一心にならして頂くという、私は信心が今こそお互い、頂かなければならん時じゃなかろうかという風に思う。
ですから、今日私が申しておりますところの信心、お供え物とおかげはつきものではないぞ、と言う事はお参りとお供え、おかげはつきものではないぞと。けれどもお話を聞けば聞く程に、神様の御恩徳を思えば思う程に、金光様のお取次ぎの働きを思えば思う程に、お参りさせて貰わねば居られないという、その事が果たして私どもの信心の中にどの程度育っておるかと、言うことを確かめさして貰わねばいかん。
そしてそれが例えば脇殿建立となって来るならば、それはそれこそ氷の破片を持って、草野から椛目まで走って親に一口食べさせようと言うその思い、その思いが通じる通じない、たった之だけの事であっても、それが一っの大きな力になるとき、神様の願いが成就するときであり、私どもの願いが成就する時であろうと思われるのです。こうして一徳受けよう、これで一ちょ。
これが済んだらおかげをこっちの方が頂こうと、いった様なものではなくて、お供え物とおかげは、つきものではないと仰しゃる。だからお供え物頂こうと思うてお参りしょるとじゃありません、いやおかげを頂こうと思うてお参りしょるとじゃありません。日々の神恩奉謝の思いが、この様にしてお参りになって居るのであります、と言うところまで信心は進められなければならないと、言う事を聞いて頂きましたですね。
どうぞ。